Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, March 15, 2009

*March 16th 2009

.  mQQQm            
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      
.  /~~~\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β       
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 3月 16日
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どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page009.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●学ぶ姿勢(Learning Ability of Children)

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学校で、何を学ぶか。
第一義的には、過去の先人たちが学んだ知恵や知識を、
身につけるため。
「教育」というのは、「教えること」。

第二義的には、「自ら学ぶ姿勢を養い育てること:。
「教育」というのは、「自らを育てること」。

++++++++++++++++++

学校で過ごす時間というのは、人生全体からみると、短い。
高校までを、12年間としても、全体の7分の1。
短いから、意味がないというのではない。
若いころの1年は、40代、50代の、5年、あるいは10年に匹敵する。

その学校で学ぶものは多い。
過去の先人たちが身につけた、知識や知恵、経験や技術など。
それを未来に生かすために、学ぶ。

が、もうひとつ忘れてはならない意義がある。
それは「自ら学ぶ姿勢を養い育てる」ということ。
学校を卒業してからは、むしろこの力のほうが役に立つ。
役に立つだけではなく、重要。

私たちは死ぬまで、常に学びつづける。
わからないことがあれば、学ぶ。
自ら学んで、決着をつける。
その姿勢こそが、大切。

このことは中学生や高校生の受験勉強をみていると、わかる。
私は、子どもたちを指導するとき、おおまかに言えば、つぎの
3期+1期に分けている。

(第1期)学ぶことは楽しいということを教える。
年齢的には、年中児から小2、3年生まで。
この時期は、子どもを笑わせ、楽しませる。

(第2期)自学自習を身につけさせる。
自分で教科書を開き、自分で勉強させる。
「わからないところがあったら、もってきなさい」式の教え方に徹底する。
年齢的には、小3~4年生。

(第3期)学習癖を上級生からもらう。
勉強癖のできた上級生の間に座らせ、勉強癖そのものをもらう。
つまりこうして上級生から下級生へ、勉強癖を順送りに、伝えていく。
自学自習ができるようになったら、そうする。
年齢的には、小5~6年生。

(第4期)卒業。
たいていの子どもは、小6の終わりころになると、こう思うようになる。
「こんな林に教わるくらいなら、自分で勉強したほうがまし」と。
中には生意気になり、教室を蹴飛ばすようにして出て行く子どももいる。
悪態をつく子どももいる。
が、それこそ私が望むところ。
そのときは私の指導法の価値がわからないかもしれない。
しかし、10年、20年と過ぎたとき、そして今という過去を振り返った
とき、その価値がわかる。

繰り返すが、大切なのは、自ら学ぶという姿勢。
その姿勢だけ育っていれば、あとは子どもは自分で伸びていく。
中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても、さらにおとなになっても。
その姿勢のない子どもは、いつも、(そこまで)。
そこで進歩を止める。

で、私自身のことだが、ときどき高校生が学んでいる理科や社会の教科書を見る
ことがある。
今ではチンプンカンプン。
が、高校生のほうは、それを許してくれない。
容赦なく質問を浴びせかけてくる。
そういうとき私は、少し時間をくれと言いながら、その前後をさっと読む。
読みながら、学ぶ。

今のところ、学び取る力は健在のようだ。
たいていそれで生徒たちの質問に答えることができる。
つまりそれこそが、私の(力)ということになる。

そう、わからないことがあれば、自分で学べばよい。
簡単なことだが、それができない人も多い。
勉強とは、他人に教わってするものだと信じている人もいる。
しかし……。
それではいつまでたっても、真理に到達することはできない。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
教育の目的 教育とは 自学自習 学ぶ力 学び取る力)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●MSIのミニ・パソコン(U100)

++++++++++++++++++++

先月、MSIのミニパソコンを買った。
値段は4万2700円。
信じられないほど、安い。

で、今のところ、気に入っている。
家の中では、いつももって歩いている。
が、問題がないわけではない。
キータッチがソフトすぎる。
バッテリーのもちが、思ったほどよくない。
つくりが、チャチなど。
そういう欠点はあるにはあるが、
値段からして、文句は言えない。

が、このパソコンで文字を打っていると、
ときどきおかしな現象が起きる。
たとえば「た」を打ちたくて、「t」と入力して、つぎに「a」を入力する。
「a」のキーを叩いた瞬間、「t」の文字を残したまま、とんでもない行へ
カーソルが移動してしまう。

ワードでも、そうなる。
オープン・オフィスのライターでも、そうなる。

今のところ、ソフトに不都合があるのか、ハードに不都合があるのか、不明。
CPUの処理能力が、キータッチに追いつかないためかもしれない。
私は、キーを叩くのが、速い。
で、200~300文字、日本語を打つたびに、そうなる。
しかしそれではワープロとしては、使いものにならない。
しばらく様子を見てみよう。
そのあと、ショップの人に相談してみよう。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●レボルーショナリーロード(Revolutionary Road)

+++++++++++++++++++++

映画『レボルーショナリーロード』を見てきた。
レオナルド・ディカプリオ&ケイト・ウィンスレット主演。
『タイタニック』の再現版……ということで、かなり期待して
見に行った。

が、星は2つの★★。
がっかり。
ワイフの評価は、3つの★★★。
2度目は、ぜったいに見たくない映画。
本当の題名は、『レボルーショナリーロード・燃え尽きるまで』。
しかし何が燃え尽きたのだろう?

++++++++++++++++++++++

平凡なサラリーマンの、フランク(ディカプリオ)。
その夫を家庭で支える、エイプリル(ウィンスレット)。
ともに、どこか不完全燃焼症候群に襲われている。
子育てに追われる、平凡な毎日。
そのエイプリルがある日、パリへの移住を提案する。
一時はフランクもその気になるのだが……。

が、ちょっとしたつまずきが、互いの不協和音となって、やがて増大していく。
ドラマとしては、どこの家庭でもあるような話。
それだけに2人の熱演が大切ということになるが、どうも盛り上がらない。
アメリカ映画にしては、少し力みすぎ。

この映画は、リチャード・イェーツの小説が基(もと)になっているという。
つまり実話とは言わないが、モデルになった夫婦がいたはず。
その夫婦の妻、つまりエイプリルには、何かの情緒的問題があったのではないか。
ウィンスレットが演ずるエイプリルは、そういう点では、まともすぎる。
つまりストーリーから受けるエイプリルの(心の問題)と、ウィンスレットが
演ずるエイプリルの(まともさ)が、どうも一致しない。
もう少し、かみくだいて説明してみよう。

エイプリルという女性は、その年齢にしては、現実感が乏しい。
ふつう、(「ふつう」という言葉は、慎重に使わねばならないが)、人は、成長とともに、
夢幻的なものの考え方から、現実的なものの考え方へと変化していく。
またそれができる人を、「おとな」という。

が、心に何らかの問題をかかえていると、その成長がはばまれる。
わかりやすく言うと、おとなになっても、おとぎの国にでも生きているかのような、
ものの考え方をする。
おそらくリチャード・イェーツは、本の中では、そういう女性を描いたのだろう。
しかし、映画の中のエイプリルは、そういう意味では、(まとも)。
そのまともすぎる点に、違和感を覚えた。

映画を見終わったとき、ワイフはこう言った。
「どこの夫婦も、いろいろな危機を乗り越えながら、成長するものよ」と。
フ~~ン?
ワイフも、私の知らないところで、いろいろな危機を経験していたようだ。

全体としては、制作費もそれほどかかっていない、安上がりの映画。
『タイタニック』とは、比較にならない。
が、それ以上に、ケイト・ウィンスレットが、歳をとったのが残念だった。
スタイルはよくなったが、肌が汚いのには、がっかりした。
白人の女性は、スタイルはよいが、近くで見るものではない。
……とまあ、映画を見ながら、昔、オーストラリアの友人がそう言ったのを、
思い出していた。

そうそうこのところ、睡眠不足がつづいていたこともあり、途中、10~15分ほど、
眠ってしまった。
どちらかというと、私には、退屈な映画だった。

(追記)
年代は、逆算すると、私が満8歳前後の映画ということになる。
私が小学3、4年生のころ。
そのころすでにアメリカは、電算機、つまりコンピュータに向けて動き出していた。
私はむしろそちらのほうが、すごいと思った。
映画とは直接、関係のない話だが……。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●霊感商法(Spritual Boom)

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『神奈川県警警視が関与したとされる霊感商法企業「神世界」(山梨県甲斐市)に、
強制捜査のメスが入った。癒やしや霊感ブームに乗って若い女性ら数千人から
100億円以上を集めたとみられるが、「ヒーリングサロン」と称して、セレブ気分が
味わえる高級マンションや邸宅に、被害者たちを誘い込んでいた』(以上、産経新聞・
090211)。

++++++++++++++++++++

この中で注目すべき点は、数千人から、100億円も集めていたということ。
仮に被害者が1000人とするなら、1人当たり、1000万円ということになる。

方法はこうだ。

『……神世界被害対策弁護団によると、最初は1000円の体験ヒーリングや占いで引き
つけ、「霊視鑑定」で「悪行をした先祖が取りついている。今何とかしないと!」と脅し、
「力」と大書した紙入りのお守り袋(力(ちから)ライセンス)を10万5000万円で
買わせる。
 1万500円の「神書」と称する教典には、「人類が初めて授かった神様からの品で、本
来1冊1兆円以上だが、最低価格に設定」との後書きが。除霊のための玉ぐし料などとし
て金を吸い上げ、中には1000万円以上だまし取られた主婦もいた』(同)と。

スピリチュアルブームも結構だが、そういうものに乗せられて、「1000万円以上も
だましとられた主婦もいたという。

霊視ねエ~~?
神書ねエ~~?
除霊ねエ~~?
玉ぐし料ねエ~~?

では、本当の加害者はだれかということになる。
産経新聞はつぎのようにしめくくる。

『……紀藤M樹弁護士ら弁護団は江原啓之、美輪明宏両氏が出演する「オーラの泉」や、
細木数子氏出演の「ズバリ言うわよ!」などの番組を挙げ、「ヒーリングサロンの被害はこ
こ1、2年で激増した。霊感を断定的に放送する番組の影響は明らかにある」と安易な霊
感ブームに警鐘を鳴らしている』(同)と。

実名をそのまま転載させてもらったが、ここに出てくる、江原氏にしても、
美輪氏にしても、加害者ではない。
彼らは、ただの「人」。
彼らはこう言うだろう。
「私たちには関係ありません」と。

そう、関係ない。
その「力」もない。
あるわけがない。
本当の加害者は、実はテレビ局である。
こうしたアホな番組を、何らフィルターにかけることなく、世間に垂れ流す
テレビ局である。

言うなれば、カルト教団の広報宣伝を、無料で請け負っているようなもの。
そしてその結果、「神世界」だけでも、数千人の被害者が出たという。
が、ここで誤解していけないのは、何も「神世界」だけが、霊感商法企業では
ないということ。
現在日本には、宗教法人だけで、20万以上もある。
さらに宗教法人格をもたないまま、個人で活動している人は、その数10倍は、いる。
最近では、町角のあちこちに、占いだの、何だのという、おかしなボックスが、
並ぶようになった。
見ると、たいてい若い女性が、そこへ出入りしている。

では本当の加害者はだれか?

実は考えることを教えない、文部科学省である。
……とまあ、話が飛躍してしまったが、教育にもその責任がないとは言わせない。
ざっとみても、小学生の40~60%が、占いやまじないを信じている。
中には、真剣にそれと取り組んでいる子どももいる。
「霊」を信じている子どもも、ほぼ同じくらい、いる。
こうした事実を一方で放置しておきながら、何が教育かということになる。
あるいはそれについても、「信仰は個人の自由」とか言って、放任するとでもいうのか。

どうして学校で、もっと(合理)を教えないのか。
あるいは占いやまじないを、否定しないのか。
宗教問題とからんで、むずかしい点はあるということは知っている。
しかし教師が、それ以上の(合理)を子どもたちに語るのは、自由のはず。
一例だが、私は、ときどきこんな指導を、子どもたち(小学高学年児)にしている。

●錯覚(思いこみ)

「みんなは、ハンドパワーというのを知っているか?」と話しかける。
「手のひらからは、オーラが出る。そのオーラで、病気を治したり、精神を
癒したりすることができるよ」と。

中に、とたん、目を輝かせる子どもがいる。

「実は、ぼく(=はやし浩司)にも、そのパワーがある。
あまり強くはないけど、しかし君たちに見せるくらいの力はある。
これから実験してみせてやろう」と。

そこで私は子どもたちの手を、甲を上にして、机の上に並ばせる。
その上から、私の手をかざし、それを子どもたちの手に近づけていく。
そのときコツは、そういうものを信じやすそうな、つまり暗示に弱そうな子どもを、
最初に選ぶこと。

私の手のひらをゆっくりと近づけていくと、その子どもが、「アッ、感じる、
感じる……」と言う。
ふつうの人なら(おとなでも)、熱気というか、圧迫感のようなものを感じるはず。
これは大脳の視覚野から送られてきた情報を、脳みそが勝手に判断するためである。
実際に、熱気や圧迫感を感じるわけではない。
まったくの錯覚である。
すると、つぎつぎと子どもたちは、「感ずる」「感ずる」と言い出す。

で、私は、「なっ、オーラというものはあるんだよ」と言う。
それまでそういうものを信じていなかった子どもでさえ、「本当だ」「知らなかった」と
言って驚く。

多くの霊感商法も、同じような手口を使う。
で、ここで終わったら、私も、その手先ということになる。
そして実験は、つぎのようにしてしめくくる。

「では、これからが本当の実験だ。
A子さん、前に出てきなさい。
今度は、あなたに目を閉じてもらいます。
目を閉じて、ぼくのオーラを感じてもらいます。
あなたはとくに霊感の強い人ですから、ぼくのオーラを強烈に感ずるはずです」と。

A子さんに目を閉じてもらい、私は言葉だけで、こう言う。
実際には、私の両手はポケットにつっこんだまま。

「いいかな、ぼくの手を近づけるよ。
ほら、だんだん近づけていくよ。
今、ぼくの手は、君の額の上にある。
どのあたりでぼくのオーラを感ずるかな……。
ほかの人は、この距離だと、まだ何も感じないはずだ。
しかし君は特別だよ……。
ほら、もっと近づけるよ……」と。

私の両手は、ポケットにつっこんだまま。

するとA子さんは、こう言いだす。
「感じる、感じる、先生! 額が熱くなってきた……」と。

それを見て、ほかの子どもたちが、ゲラゲラと笑いだす。
笑ったところで、A子さんが目をあけ、自分がだまされたことを知る。

そこで私は脳みその構造を簡単に説明する。
思いこみで、感覚が勝手に反応してしまうことを説明する。
最後は、こう言ってしめくくる。

「オーラなんてものは、ないよ。ただの錯覚だよ。
よく駅前などに行くと、そういうことをしている人を見かけるけど、
君たちは近づかないようにね」と。

テレビ局も、そういった「人」を出すだけではなく、一方で科学的知識のある
専門家を登場させるべきである。
これは「べき」である。
つまりバランスのとれた番組づくりをすべきである。
いや、もともと、いくらブームとはいえ、そういう番組など、制作すべきではない。
少しでも知性や理性に恥じるなら、そういう番組など、制作すべきではない。

(「~~べきではない」という言い方は不適切かもしれないが、現在のように過剰な
状況を考えるなら、それくらいの覚悟をもって、この問題を考えたらよい。
やがて日本全体が、おかしなカルト教団化することだって、ありえない話ではない。)

プラス、一言!

占いやまじないに凝る前に、若い女性たちよ、もう少し自分の脳みそで、ものを
考えろ!
顔や頭は、飾るためだけにあるのではないぞ!
被害者だ、被害者だと叫ぶ前に、やるべきことがあるはずだ!


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●激化する社員いじめ

++++++++++++++++++

地元に、Xという自動車会社がある。
そのXに、1、2を争う下請け部品メーカーがある。
そのメーカーに、長年の友人のY氏が務めている。
BLOGを通して、親しくなった。
そのY氏に対して、こんど会社がすべてのBLOGを
閉鎖するように命令してきた。
親会社であるX社の担当者から、不適切な表現があったと
指摘されたのが理由という。
Y氏は、自分の会社名も、またXという自動車会社名も
いっさい、出していない。
また悪口を書いたり、批判記事を書いたわけでもない。
ただ写真を数枚、つまりXという自動車会社とわかる
写真を数枚、掲載しただけである。
その写真に、たまたまX社のマークが入っていた。

Y氏は一応会社に自分の意見を申し立てたというが、
「こういう時期だから……」ということで、
結局、泣く泣く、BLOGを閉鎖。

+++++++++++++++++

●言論の自由

今、この日本には、基本的には言論の自由は、ない。
「社員だから……」という理由で、自分のBLOGすらも、自由に書けない。
身分を隠しても、書けない。
好意的な意見も書けない。
どこも大不況。
それはわかるが、その大不況を理由に、社員へのしめつけが、ますます激しく
なってきている。
「敵は外」なのに、社員どうしが、身内を責めあっている。
つまりそれだけみなが、神経質になっている。
つまり(社員)は、こうして会社に、飼い殺されていく。
電話を切るとき、Y氏はこう言った。
「林さん(=私)は、いいなあ。何でも好きなことを書けるから」と。

自由を確保するためには、それなりの覚悟と、努力が必要である。
言論の自由は、さらにそうである。
いつも批判される。
攻撃される。
匿名でこそこそと、意見を書くのは、簡単だ。
が、それでも制約が入る。

たとえば総選挙で、Xという自動車会社が、政治家のZ氏を推したとする。
そのときXという自動車会社の社員はもちろん、下請けの会社の社員まで、
Z氏の批判はもちろん、ほかの候補を推薦するような文章を書くことすら、
許されない。

今回も、Y氏は、自分の趣味について書いただけである。
「不況で、クラブへの補助金が減った」というようなことを書いただけである。
が、それだけで、BLOGの閉鎖命令。
もちろんそれに逆らえば、クビ!


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●約束

+++++++++++++++++++++

今でこそ「約束」という言葉が、ある。
みな、それがどういう意味かも、よく知っている。
しかし戦前には、どうだったか?
明治時代には、どうだったか?
さらに江戸時代には、どうだったか?

+++++++++++++++++++++

●死語

これはあくまでも私の印象だが、遠い江戸時代の昔には、「約束」などという
言葉はなかったのではないか。
「約束」の概念すら、なかった(?)。
江戸時代には、すべてが(腹芸)で動いていた。
本音を奥に隠しながら、建前で動いていた。
『ダカラ論』『ハズ論』で動いていた。

このことは、古いタイプの村に住む、古いタイプの人たちを観察してみると、わかる。
たとえば私はG県のM町というところで、生まれ、育った。
小さな町だが、それでは人の出入りは、ほとんどない。
さらに山奥へ行くと、明治時代そのまま、江戸時代そのままというような地域がある。
文化や風習は、昔のまま。
さらにものの考え方まで、昔のまま。

そういう世界では、約束などという言葉は、死語に近い。
約束などというものは、あってないようなもの。
「約束は守らねばならないもの」という意識さえ、薄い。

●邑(むら)社会

いわゆる「邑(むら)社会」というのは、たがいに、阿吽(あうん)の呼吸
で成り立っている。
その分だけ、相互依存性が強い。
よく耳にする言葉が、「あの人は、(こちらの事情を)、わかってくれているはず」
というもの。
ものごとをはっきり言うのを、避ける。
遠まわしな言い方で、自分の意思を伝える。
そしてその結果、「わかってくれているはず」と。

そういう世界では、約束などという行為そのものが、なじまない。
へたに「約束を守ってほしい」などと言おうものなら、それだけで、その
世界から、はじき飛ばされてしまう。

こんな例で考えてみよう。
ただ前もって誤解がないように言っておくが、だからといって、私は姉を
責めているわけではない。
その地域では、みな、そういうものの考え方をする。
こういうことがあった。

●なし崩し

私の実兄の奇行が目立つようになったときのこと。
まず姉が、実兄を引き取った。
実母が骨折で入院したのが、きっかけだった。
12月も終わりごろのことである。

で、私が正月早々、実母を見舞いに行くと、「正月の間だけでも、兄をみて
ほしい」と姉は言った。
姉は「一週間だけでいい」と言った。
そこで私はそのまま実兄を浜松へ連れてきた。
が、実母の入院が長引いた。

「約束」では、「正月だけ」ということになっていた。
しかし姉には、その意識はなかった。
最初は、(母が入院したから、兄のめんどうはあなたがみるべき)と、姉は考えた(?)。
つぎに、(その母の入院が長引いたから、兄のめんどうを、つづけてみるべき)と、
姉は考えた(?)。
が、やがて、(私は嫁いだ身分だから、林家の問題は、あなた(=はやし浩司)が、
みるべき)と(?)。

こうして、なし崩し的に、最初の約束は、反故(ほご)にされた。

で、私の方はどうかというと、そのつど、「事情が変わったのだから、しかたない」
というふうに考えて、それに納得した。

●ナーナー社会

こうした行動パターンは、生活のありとあらゆる場面で、観察される。
つまり邑社会では、何ごとにつけ、白黒を明確にするのをいやがる。
あいまいなまま、つまり灰色のまま、その場その場で、うまくやり過ごすことを、
よしとする。
約束にしても、そのときだけのもの。
事情が変われば、約束の内容も変わる。

先の姉とのケースでも、私が、「正月だけと言ったではないか」と主張すれば、
そのまま大喧嘩になっていただろう。
姉にも、最初から約束を守ろうという意識はなかった(?)。
約束という概念を理解した上で、そう言ったのではない。
で、私は私で、そういう風習というか、風土的な慣習をよく知っている。
だからそのときも、姉が「約束した」とは、思っていなかった。
思っていなかったから、途中でそれが破られたところで、それほど気にしなかった。

●義理・人情の世界

では何が邑社会の秩序を保っているか、ということになる。
そこでは、約束というものが、成り立たない。
常識で考えれば、社会そのものが、バラバラになってしまう。

そこで登場するのが、「義理」「人情」ということになる。
「義理を通す」とか、「義理を欠いた」とかいうような言い方をする。
たとえば先のようなケースで、私が、「一週間の約束だったから」と言って、
実兄を姉のところに送り返したら、「義理を欠いた」ということになる。
(たとえそういう約束であっても、事情が変わった)、(だから事情に合わせて、
約束の内容も変わるのが当然)(それに異議を唱えるとは、何ごとか)と。

●村八分

だから約束を破られたほうも、何も言わない。
約束を破ったほうも、何も言わない。
(もともと約束したという意識すら、もっていない。)
たがいに何も言わないまま、ナーナーでその場をやり過ごしてしまう。

が、これは兄弟の間で起きたこと。
もし同じようなことが、他人との間で起きたら、どうなるか。
こんなケースで考えてみよう。

村の人たちが、それぞれ土地を供出しあって、道を作った。
それに対して、村が補助金を出してくれることになった。
が、このとき意見が二つに分かれた。

「出した土地の大きさに応じて、補助金を分配すべき」という考え方。
「道の奥のほうに住む人は、それだけ利益を受けているのだから、補助金は
あきらめるべき」と。

結果的に、その中でも長老格の人が、補助金の大半を受け取ってしまった。
「村長と話をつけたのは、私だから」と。

こういうケースのばあい、邑社会では、道理が引っ込んでしまう。
道理を前面に出せば、たがいの関係が気まずくなってしまう。
そこで村の人たちは、どうしたか?
しかしここからが、邑社会の怖ろしいところでもある。

補助金の分け前に与(あずか)れなかった人たちは、陰で結束をした。
そしてことあるごとに、その長老格の人に、意地悪をするようになった。
会っても、形だけのあいさつ。
何か頼まれても、やんわりとそれを断る。
重要な連絡事項を、わざと伝えない、など。

「村八分」という言葉があるが、村八分の怖ろしさは、それを経験した
ものでないとわからない。
いつしかその長老の格の人は、村八分になってしまった。

●独特の論理

邑社会では、独特の論理が働く。
その論理に従って、人々は、行動する。
そこでは、いわゆる(約束)という概念は通用しない。
(合理)という概念も通用しない。
都会に住む人なら、こう考えるにちがいない。
「どういう事情であるにせよ、約束は守るべき」とか、
「言いたいことは、はっきりと言ったほうがいい」と。

しかしそれが通らないのが、邑社会。
だから冒頭に書いた結論へとつながっていく。
「これはあくまでも私の印象だが、遠い江戸時代の昔には、「約束」などという
言葉はなかったのではないか」と。

現代社会のように、約束というものが、人間関係をしばる(契約)となったのは、
この日本でも、ごく最近のことと考えてよい。
私が子どものころでさえ、私が住む地域では、本音(ほんね)と建前(たてまえ)が、
いつも複雑に交錯していた。
ときに、何が本当で、何がウソか、わからなくなってしまったこともある。

が、幸運にも(?)、私はそういう世界から飛び出すことができた。
とくにあのオーストラリアでは、ウソは通用しない。
旧約聖書の時代から、契約、つまり約束が人間関係を築く(柱)になっている。
もちろん本音と建前を使い分けるなどということはしない。
そんなことをすれば、その瞬間、信用を失い、彼らの世界からはじき飛ばされてしまう。

さらにこの浜松というところは、昔からの街道宿場町として栄えたところである。
人の出入りもはげしい。
少なくともG県のM町と比べると、ずっとオーストラリアに近い。
(戦後、そうなった可能性はあるが……。)

しかし……。
こうした島国的な発想は、世界では、ぜったいに通用しない。
約束は守る。
どんなことがあっても、守る。
もしそれを守れないような状況が生まれたら、それを説明して、再度、約束を
しなおす。

また陰であれこれ悪口を言ったり、たがいに足を引っ張りあうくらいなら、
衝突を覚悟で、言いたいことは言えばよい。
長い目で見て、そのほうが人間関係を、すっきりとする。
自分のまわりの世界を住みやすくする。

これからはそういう世界をめざす。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
日本人と約束 約束論 邑意識)



【4】(子育て危険度)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(一部を紹介します。もっと読んでくださる方は……
http://hiroshihayashi9.ninja-web.net/page012.html#label1
へ、おいでください。)
一緒に抗議に行ってほしい!
過関心は百害のもと(失敗危険度★★★★★)

●問題は母親に
 ある朝、一人の母親からいきなり電話がかかってきた。そしてこう言った。いわく、「学
校の席替えをするときのこと。先生が、『好きな子どうし並んでいい』と言ったが、(私の
子どものように)友だちのいない子どもはどうすればいいのか。そういう子どもに対する
配慮が足りない。こういうことは許せない。先生、学校へ一緒に抗議に行ってくれないか」
と。その子どもには、チックもあった。軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環
境が原因だが、そういうことはこの母親にはわかっていない。もし問題があるとするなら、
むしろ母親のほうだ。こんなこともあった。

●ささいなことで大騒動
 私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがつ
いているなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。その夜、猛
烈な抗議の電話がかかってきた。いわく、「おしりのウンチのことで、子どもに恥をかかせ
るとは、どういうことだ!」と。その子ども(小三男児)は、たまたま学校で、「ウンチも
らし」と呼ばれていた。小学二年生のとき、学校でウンチをもらし、大騒ぎになったこと
がある。もちろん私はそれを知らなかった。

●まじめ七割
 しかし問題は、席替えでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないか
ということ。さらにはなぜ、小学二年生のときにそれをもらしたかということだ。さらに
こうした子どもどうしのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそ
んなことに神経を払っていたら、授業そのものが成りたたなくなる。子どもたちも、息が
つまるだろう。教育は『まじめ七割、いいかげんさ三割』である。子どもは、この「いい
かげんさ」の部分で、息を抜き、自分を伸ばす。ギスギスは、何かにつけてよくない。

●度を超えた過関心は危険
 親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子
どもをつぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズ
だらけになりながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけないし、子ども自身がそれ
を自分で解決しようとしているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。へたな口出しは、
かえって子どもの成長をさまたげる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

勉強だけをみてくれればいい!
何を考えている!(失敗危険度★★★★★)

●アンバランスな生活
 どうしようもないドラ息子というのは、たしかにいる。飽食とぜいたく。甘やかしと子
どもの言いなり。これにアンバランスな生活が加わると、子どもはドラ息子、ドラ娘にな
る。「アンバランスな生活」というのは、たとえば極端に甘い父親と極端に甘い母親で、子
どもの接し方がチグハグな家庭。あるいはガミガミとうるさい反面、結局は子どもの言い
なりになってしまうような環境をいう。

こういう環境が日常化すると、子どもはバランス感覚のない子どもになる。「バランス感
覚」というのは、ものごとの善悪を冷静に判断し、その判断に従って行動する感覚をい
う。そのバランス感覚がなくなると、ものの考え方が突飛もないものになったり、極端
になったりする。常識はずれになることも多い。友だちの誕生日に、虫の死骸を箱につ
めて送った子ども(小三男児)がいた。先生のコップに殺虫剤を入れた子ども(中二男
子)がいた。さらにこういう子ども(小三男児)さえいる。学校での授業のとき、先生にこう言った。

●「くだらねえ授業だなあ」
 「くだらねえ授業だなあ。こんなくだらねえ授業はないゼ」と。そして机を足で蹴飛ば
したあと、「お前、ちゃんと給料、もらってんだろ。だったら、もう少しマシなことを教え
ナ」と。

 実際にこのタイプの子どもは少なくない。言ってよいことと悪いことの区別がつかない。
が、勉強だけはよくできる。頭も悪くない。しかしこのタイプの子どもに接すると、問題
はどう教えるではなく、どう怒りをおさえるか、だ。学習塾だったら、「出て行け!」と子
どもを追い出すこともできる。が、学校という「場」ではそれもできない。教師がそれか
ら受けるストレスは相当なものだ。

●本当の問題 
が、本当の問題は、母親にある。N君(小四男児)がそうだったので、私がそのことを
それとなく母親に告げようとしたときのこと。その母親は私の話をロクに聞こうともせ
ず、こう言った。「あんたは黙って、息子の勉強だけをみてくれればいい」と。つまり「余
計なことは言うな」と。その母親の夫は、大病院で内科部長をしていた。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

いらんこと、言わんでください!
女の修羅場(失敗危険度★★★★)

●子どもは芸術品
 母親たちのプライドというのは、男たちには理解できないものがある。その中でも、と
くに子どもは、母親にとっては芸術作品そのもの。それをけなすとたいへんなことになる。
こんなことがあった。

 スーパーのレストランで、五歳くらいの子どもが子どもの顔よりも大きなソフトクリー
ムを食べていた。体重一五キロ前後の子どもが、ソフトクリームを一個食べるというのは、
体重六〇キロのおとなが四個食べる量に等しい。おとなでも四個は食べられない。食べた
ら食べたで、腹の調子がおかしくなる。で、その子どもと目が合ったので、思わず私はそ
の子どもにこう言ってしまった。「そんなに食べないほうがいいよ」と。が、この一言がそ
ばにいた母親を激怒させた。母親はキリリと私をにらんでこう叫んだ。「あんたの子じゃな
いんだから、いらんこと、言わないでください!」と。またこんなことも。

●江戸のカタキを長崎で討つ
 母親というのは、自分で自分の子どもを悪く言うのは構わないが、他人が悪く言うのを
許さない。(当然だが……。)たとえ相手が子どもでも許さない。これは実際あった話だが、
(ということを断らねばならないほど、信じられない話)、自分の子ども(年長男児)をバ
カと言った相手の子ども(同じ幼稚園の年長男児)を、エレベータの中で足蹴りにしてい
た母親がいた。そこで蹴られたほうの母親が抗議すると、最初は、「エレベータが揺れたと
き、体がぶつかっただけだ」と言い張っていた。が、エレベータがそこまで揺れることは
ないとわかると、こう言ったという。

「おたくの子がうちの子を、幼稚園でバカと言ったからよ」と。江戸のカタキを長崎で
討つ、というわけであるが、これに親の溺愛が加わると、親子の間にカベさえなくなる。
ある母親はこう言った。「公園の砂場なんかで、子どもどうしがけんかを始めると、その
中に飛び込んでいって、相手の子どもをぶん殴りたくなります。その衝動をおさえるだ
けでたいへんです」と。

●「お受験」戦争
 こうした母親たちの戦いがもっとも激しくなるのが、まさに「お受験」。子どもの受験と
いいながら、そこは女の修羅場(失礼!)。どこがどう修羅場ということは、いまさら書く
までもない。母親にすれば、「お受験」は、母親の「親」としての資質そのものが試される
場である。少なくとも、母親はそう考える。だから自分の子どもが、より有名な小学校に
合格すれば、母親のプライドはこのうえなく高められる。不合格になれば、キズつけられ
る。

 事実、たいていの母親は自分の子どもが入学試験に失敗したりすると、かなりの混乱状
態になる。私が知っている人の中には、それがきっかけで離婚した母親がいる。自殺を図
った母親もいる。当然のことながら、子どもへの入れこみが強ければ強いほどそうなるが、
その心理は、もう常人の理解できるところではない。


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